今日から恩師の海老澤元宏先生が世界アレルギー学会/日本アレルギー学会を開催します

今日から、京都で、私の大恩師で、世界アレルギー学会の会長である、海老澤元宏先生の主催で、世界アレルギー学会/日本アレルギー学会 (joint) がWebで開催されます! 

 私は2003年に研修医として相模原病院に就職しました。当時、相模原病院は小児科医は海老澤先生を含めて5名しかおらず、海老澤先生もアレルギーの診療・研究だけでなく、当直や一般外来、病棟業務の対応をされておりました。これは、かなり異例の状況です。相模原病院以外の、名のある施設、例えば、成育医療センターや神奈川県立こども医療センターは、小児病院でも専門で科が分かれており、アレルギーしか対応しておりません。このようにご多忙な状況にも関わらず、出来の悪い私を (他の病院ならドロップアウトしていたでしょう)あきらめずにご指導くださり、私の業務態度に問題があると、時には厳しく、時には優しく、時間を割いて叱ってくださいました。そこまで手をかけていただいたにも関わらず、私は、研修医終了後、相模原病院を退職し、横浜市大に入局する道を選んでしまいました。最後の送別会の時には、海老澤先生より「君は馬鹿なことをしたね。新しく2人の先生が国内留学として来てくれることになった。君の戻る場所はないからね」と言われ、それに対して私は、「もうアレルギーを勉強することはないから大丈夫です」とムキになって言い返してしまい、後味の悪い別れ方になってしまいました。2005年に横浜市立大学大学病院に勤務し、色々な分野を勉強しますが、魅力的な分野はなく、また私自身誘われず、結局はアレルギーを専門とすることを決意します。その後、2006年の冬に、後味の悪いお別れから連絡の途絶えていた、海老澤先生より一通のハガキが届きました。そこには、「君が論文発表や学会発表をしていることに感心しました。君は不器用だけど、努力して着実に成長してる点が素晴らしいです。また勉強会などで会いましょう」と書かれていました。私のことを見てくださっていたのだと思うと胸が熱くなりました。その後、私は2008年に医局から足柄上病院に左遷され、それを機に週1回の研究日をいただき、2年間、相模原病院で食物負荷試験や海老澤先生の専門外来を見学させていただきました。並行して、足柄上病院でも、アレルギー専門外来と食物負荷試験を立ち上げました。その結果、アレルギー外来は2年後にはパンク状態に、食物負荷試験は年間で200件をこえ (当時としてはすごい数です)臨床研究や学会発表にも取り組むことができました。活気の少なかった足柄上病院はだいぶ活気のある病棟に変わりました。当時は足柄上病院に骨をうずめる気持ちでしたが、諸事情で、2013年に横浜市大医局を退局し、足柄上病院も退職することを決意しました。医局をやめ、新しい就職先探しで困っているところ、海老澤先生に拾っていただき、2014年より相模原病院へ復帰しました。その時には、小児科医師は私を含めて15名以上の大所帯となっておりました。相模原病院ではアレルギーカンファレンスでの海老澤先生の数々のコメントが大変勉強になりました。例えば、「発表は最も言いたいことを1文にしてそれを軸にする、常にそれを目印にしてそこからぶれないようにする」です。これは発表だけでなく、人生においても意識するようにしています。また、小児科医長や他施設との共同研究など色々な仕事を任さていただき、開業までの4年間は、人生の中で、私が最も成長できた期間だったと思います (仕事で恩返しができず、最後までお世話になりっぱなしでした)

長くなってしまいましたが、言いたいことは、海老澤先生は私のかけがいのない恩師ということです。

 

海老澤先生、会場まで駆けつけることができず申し訳ありません。

学会の大成功を心よりお祈り申し上げます。